続:それぞれのふつう

最近、どこかのニュースで見たのですが、最近は、生き物を飼ったことがない子どもたちが、半数以上なんだそうだ。

へぇぇ。

意外でした。

 

たしかにアパートとかね、ダメなとこは、まだまだ多いですしね。

生き物ですから、多少の出費はありますしね。

で、学校での飼育も、かなり減っているんだそうだ。

飼育委員会とか、ないんですかね。最近は。

まぁねぇ、予算ないっていうしねぇ。。。

 

そのニュースでは、命の大切さを学ぶために、と保護者の協力(出資)で、、ウサギ小屋が復活した、とありました。まぁ、命の大切さって、飼うからわかる、とか単純なものではないと思うので、ひとつの学びとして、ですね。

 

さて、先日、それぞれのふつうについて記事を書きました。

 

mikanbkr.hatenablog.com

 

 人の価値観の育ちには、基本的には、周りの大人の影響が大きいと思います。その子にとっての「普通」が育つのは、一番は生活の場所(=家庭や家庭に準ずる場所)だったりします。

 

私の場合は、祖母の影響が特に大きかったです。

「かわいらしい」と「かわいそうに」が口癖の人でした。かわいそうに、と言ってお世話をする、困っている人、弱い者を放っておけない、おせっかいさんでした。(でした、としていますが、まだ健在です。認知症のため、自分年齢19歳だそうです。今の口癖は「ありがとう」です^^)

 私に対しても、きっと、両親がいつも仕事でいなくて「かわいくて、かわいそうな孫」だったのだと思います。いつも心配され、かわいがられてはいたので、基本的な愛着は(多少のひずみはありましたが)育ってはいました。そんなわけで、私は、突発的には、よくも悪くも「困っている人、なんとかならんかな」の思考が出やすい人だと思います。いつも人のことを「心配している」性質があります。 これが土台。

 

でも冷静に考えると、「かわいそう」は失礼だったり、相手の立場を考えると、外の人間が軽々しく「かわいそう」なんて言ってはいけない場合も多々あります。

自分の価値観を、相手に押し付けているだけになりかねない。

そして、自分が手伝えるところと、残念だけど手伝えないところがあることも理解しています。

 

自分は、そういう思考は、あとで学んだと思っています。 

そして、あとで学ぶ場所は、「学校」だったり、「友達」だったり、「仕事」だったり、するのかなぁと。

 

 命に関していえば、私自身は動物が好きでしたけど、怖いとか、臭いとか、嫌悪感を感じることもあったし、結構残酷で、アリの行列をつぶしてみたり、アリの巣を掘ってみたり、カエルが車にひかれて、うわー、変なにおいって思ってみたり、クモがエサを食べるのを眺めてみたり、そういう、ちょっと残酷だったり、不快感を感じるものも経験しています。

 

 そういう不快なものを、不快だと友達と共感すること、気持ち悪いねと言う友達に共感したり、そうなの?と自分と違うなぁと感じることもありました。

 かわいそうだね、かわいいね、という感情に対して、相反する残酷さや不快さも知って、で、自分は、どっち側かを考えるだけではなく、今は、言っていい場かどうか、みたいのも考える。親は?みんなは?を見ながら、でも、本当の世の中のルールは?と判断し、自分にとっての「ふつう」は、この年になるまで更新されてきていて、さらに更新されていきます。

 

 特に、私は、外の世界の情報を取り込むときには聴覚よりも視覚を頼りにしているし、実際に体験することがとても大切な手段です。相手の感情をとっさに読み取ることも結構苦手としていますから、失敗もたくさんして、自分を振り返ってきました。途中、ご縁があって、たくさんの人から学ばせてもらいました。

 

 たぶん、私の学びは、かなりゆっくりでしたが、たまたま、許容してくれる環境に恵まれました。

 

 単純に、命を大切にしようとか、そういうことではなく、ひとつのルールだけではなく、色んな「ふつう」があること、でも、臨機応変にするとはどういうことか、極限のルールは何か、そういうことを、ひとつひとつ経験できたり、何度も丁寧に教えてくれる人がいたり、おおらかに過ごせる学校や家庭、職場が、今の日本にどれくらいあるのかなぁと、思います。

 

 まとまりなくて、申し訳ない。